日本ナザレン教団呉教会
CHURCH OF THE NAZARENE
児玉善之丞先生ご夫妻の思い出
私は6月の終わりに児玉善之丞先生100歳のお祝いをするために一緒に行くみんなに助けてもらいながら小倉教会へ行ってまいりました。小倉教会は、信徒数は少ないようですが、しっかりとした信仰をもつ方数人が支えておられ「子供文庫」など充実しており、いつでも子供が来てもよいように備えておられ素晴らしいと思いました。
さて、呉教会の第14代目牧師、児玉善之丞先生ご夫妻は結婚なさってすぐに呉教会へ就任されました。昭和34年のことです。それから12年間呉教会の伝道に尽くされました。
私は、着任されたその年の5月に他の二人の方と受洗しましたので、とりわけ懐かしく思い出されます。
小倉教会での聖日礼拝は、松田基子先生が担当されました。「力を合わせて福音をつたえ、恩師の後に続く」というメッセージでした。そのあとの讃美は、児玉先生ご苦労時代の思い出「貧しくあれども」を歌いました。午後からは豪華な食事が用意されていてご長男の信之さんのビデオで昔の思い出を語り合いました。
“善ちゃん100歳おめでとう”という模造紙ににぎやかな絵と共に先生は和紙で作った頭巾と帷子を着ておられました。皆で、こどもさんびかのお誕生日お祝いの定番曲「うまれるまえから」を歌いお祝いしました。私は先生のことを善ちゃんと気安く言い合っていらっしゃることに驚きました。先生もそれにこたえてよく歌い、よくしゃべり、できることを積極的に奉仕していらっしゃる様子が垣間見えて、いいなぁと思いました。
そういえば善之丞先生は呉に来られた始めのころ、ご自分のことをこんな風におっしゃっていました。「私はペテロ」。イエスさまが十字架にかかられる前「あなたがたは私につまずく」と言われた時「みんながつまずいても私はつまずきません」と言ったペテロ。「にわとりが二度鳴く前に三度私のことを知らないと言うだろう」と言われた時は「たとえご一緒に死ななければならなくなってもあなたのことを知らないとは決して申しません」と言ったペテロ。ところがそのペテロはイエスさまが捕らえられてしまうと周りから「この人もあの人も仲間です」と言われると「そんな人は知らない」と言ったペテロ。イエスさまがいわれたとおりににわとりが二度鳴く前に三度私を知らないと言うだろうと言われたことを思い出して激しく泣いたペテロ。復活の朝マリアからお墓にイエスさまがおられなかった、復活されたのだと聞くと真っ先にお墓にかけつけたペテロ。熱意ある愛すべき人柄のペテロ。その後、悔い改めて力ある弟子として伝道したあのペテロです。
着任された当時の善之丞先生の内からあふれる伝道への熱意を思い出しました。先生は信徒の家を遠くまで訪問されました。CS(教会学校)のためには教材を工夫して作ってくださいました。当時、呉教会は援助教会でしたが、先生は自立する教会となるべく力を尽くされ祈られました。戦前からの信徒数人は先生ご夫妻をよく支えておられ奉仕されました。そして1年後には自立教会となったのです。
朝子先生はいつも笑顔で話を聞いてくださり、教会学校を熱心に見てくださいました。緒方さんの地区の焼山での土曜学校は大勢の子供たちでにぎわい、それは松田先生のときまでずっと続きました。朝子先生は神学校の前に当時のYWCAでしょうかそういうところに行っておられたということでマスゲームや歌をたくさん教えてくださいました。今でも懐かしく思い出します。年上の古い信徒がいらっしゃる中でご苦労も多かったと思います。
その児玉先生ご夫妻が揃ってお元気でお祝いの会ができ、私もその席に加わらせていただいたことをとてもうれしく、ただ感謝いたしました。
(教会員80代)
コルベ神父との出会い
私がまだ若かった頃に知った、偉人との出会いについてお話させていただきたいと思います。 子どもたちもいつの間にか大きくなり、次男が卒業すれば、親としての責任ももうすぐ終わる、というところまできました。といっても子育ては今まで妻に任せっきりで、特に何もしてきたわけではないので、この場に妻がいたら怒られそうですが、それはともかく、二人とも無事にここまで育ってくれて感謝しています。これは、神の導きと皆さまの祈りによる支えに他なりません。
小さいうちは、子どもたちに、いろいろ「こうなって欲しい、ああなって欲しい」という要求、願望もたくさんあったのですが、今は、自分の人生、自分で決断して進んでいってもらえばそれでいいと思うようになりました。
ただ、一つ子どもたちに望むことがあるとしたら、幼少期の真っ白な時期に教会学校で触れたイエスキリストの教えである、「自分を愛するように隣人を愛せよ」というみ言葉を忘れず、人に優しい人間になってもらいたいと思っています。
私自身については、大学卒業後、現在の職場で働き30年の節目の年を迎えました。
福祉関係の仕事に就かせていただいていますが、聖書の中の言葉には自分が仕事をする上で、道しるべとなる「み言葉」がたくさん書いてあります。しかし、頭では認識しているのですが、忙しい毎日を送っている際には、それを忘れ、イライラしたり、優先するべき大切な心を忘れていたり、悲観的になったり、そういったことが起こってきます。
仕事や日常生活で、自分のしんどい気持ち、逃げたい気持ちや、現実を見ようとしない姿勢など、嫌な自分が見え、「これではいけない」と思うこともあるのですが、一方で、他人を陰で批判し、人のせいにし、自分を正当化する自分もおり、知らないうちに人の心を傷つけていることも多々あるのではと考えることがあります。イエスキリストにもし会ったならば、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者がまず石を投げなさい」と私も言われそうです。
「自分ってほんとにクリスチャンなのだろうか」と考えることもこれまでに何度かありました。
そのようななげやりな気持ちになる時に、私には時々思い出す方がいます。もちろんお会いしたことはありませんが、それはコルベ神父のことです。
コルベ神父は、第二次世界大戦中、ナチスドイツに批判的な文書を発行したという嘘の情報によりゲシュタポに逮捕され、ナチスによってアウシュビッツ強制収容所に送られました。
ある日、囚人の中から脱走者が出たという連帯責任で、無作為に10名の人が見せしめのため、飲食を絶たれ飢餓状態にして処刑される餓死室に送られることになりました。公の場でその10名が選ばれ、そのうちの一人の若い男性が泣き崩れた際、
「わたしは神父です。家族がいませんから、この人の身代わりになりたいのです。」と申し出て、それが認められ、本来処刑される予定だった人は助かり、コルベ神父はその人の身代わりになり、餓死室で亡くなられたことは有名な話です。
私は大学時代の4年間、長崎に住んでいましたが、その終盤に父親の死や、進路のこと、人間関係や勉学についていけない等で心が参ってしまっていました。
そのような時、とても仲の良かった先輩が声をかけてくれました。
日本のキリスト教人口は、約1パーセント強といわれますが、長崎はその中で、4.7パーセントとクリスチャンの割合が突出して多い県です。そのほとんどはカトリックと言われており、その先輩もカトリック信徒でした。
先輩は、私と違って非常に勉学熱心でキリスト教に関する知識も豊富にありました。また、先輩はカトリックで、私はもちろんプロテスタントでしたが、同じクリスチャンということもあり、教派は異なっても、大変うまが合い、バイクの後ろに乗せてもらい、歴史的価値のある教会や、場所にもたくさん連れていってもらったことを思い出します。
キリシタン弾圧の歴史がある長崎はいろいろなところに、その跡があります。日本26聖人殉教地の西坂の丘の他にも、普通の住宅街の一角に、キリストが処刑されたゴルゴダの丘に似ているということで、弾圧から生き残った人たちが作った「十字架山」や、キリストが十字架につけられ3日目に復活されたという教えを幕府がおそれ、処刑された人たちが、復活するという噂が流れないよう、首と胴を別々に分けて埋葬した首塚、胴塚という非常にむごたらしい跡なども残っています。
私が元気がないのを察ししてくれたようで、先の先輩から、ある日、突然、コルベ神父と一緒に布教活動をしていたセルギウス修道士さんに会いに行かないか と誘われました。
私は、コルベ神父のことは知っていましたが、その時にはじめて神父が約6年間、布教活動のために長崎に在住していたことを知りました。セルギウス修道士さんは、キリストの愛があふれ出ている眼差しの人だということと、何よりコルベ神父を実際に知っているということで、ぜひ私もセルギウス修道士さんに会いたい とお願いしました。
バイクの後ろに乗せてもらい、少し市内から離れた、郊外にある「聖母の騎士会」というカトリックの高校学校が付属している、おそらく修道院だと思うのですが、そこへ連れていってもらいました。その中にコルベ神父記念館という建物がありました。 あいにく、セルギウス修道士さんは留守でいらっしゃらず、残念でしたが、中に入ると小崎登明修道士さんがいらっしゃいました。(この方は、たしかナザレン教団の何かの大会が九州で開かれた際に講師をされたことがあったと記憶しています。)
館内に入ると、「いらっしゃい、よくおいでくださいました」と優しく、しかししっかりした大きな声で出迎えてくれました。 館内にはコルベ神父の遺品の他、戦後、日本各地の戦争で被災された子供たちのために一生をささげたゼノ修道士の遺品等もあり、見るものすべてに衝撃を受けましたが、その中に、聖コルベの部屋という当時を復元された部屋がありました。部屋の中には古くて傷がかなりついた木製の机と椅子がありました。
部屋は復元だが、机と椅子は本物だと言われ 「この机と椅子で、コルベ神父は仕事をされていたんですよ、よかったらあなたも座ってごらんなさい」とすすめられ、座らせてもらいました。 ここでコルベ神父が座っておられ、この地にかつておられたと思うと、鳥肌がたち、驚きと感動で大変胸を撃たれました。
小崎修道士さんからは、いろいろな説明を丁寧にしていただきましたが、「あなたもいろいろ悩んでいるのでしょうが、コルベ神父のことを思えば、それは小さなことだと思えるでしょう?」と慰められたような、叱られたような、しっかりしなさいという激励の言葉をいただきました。
ヨハネによる福音書15章13節
「人がその友のために、自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」
実際にお会いしたわけではありませんが、この言葉を身をもって実践された方との出会いは私にとっては大変な衝撃でした。
世の中には、本当にできない、ありえないようなことを自分のためではなく、他人のためにされる方がいらっしゃいますが、それは他でもない、イエスキリストに強くつながっているからなのでしょう。そう考えさせられる時間でした。私には到底、コルベ神父のような行いはできませんが、神父を通してイエスキリストの愛に触れた瞬間でありました。本物に触れると、心が動かされます。義務からではなく、心からそうしたいと思うようになります。私もなんでもいいから何か人のために役にたちたいという思いが生まれました。
長崎の郊外には、遠藤周作の小説「沈黙」の舞台となった外海町もあります。
小説と同じように、私が試練の時に、神に助けを求めて祈っても、神はたいてい沈黙されています。神からの答えをはっきりと耳で聴くことができればと思うのですが、私には何も聞こえてきません。しかし、すぐに答えを出してくれる存在、解決してくれる存在は、私にとってのみ都合のいい相手です。神は自分に試練を通して何を問うているのか、考える機会を与えてくれているのだと、この神父との出会いを通じて、少し考えられるようになり、何かつらいことがあると、あの時のことを思い出すのです。
今、与えられた仕事は、神からのミッションだと信じ、心新たにもう少し頑張っていこうと思っています。
偉そうなことは決して言えませんが、今日皆さんの前で話をする機会を与えられたことで、隣人、特に今、仕事上接している方々を、少しでも支えることができればと改めて気持ちを持つことができたように思います。本日は貴重な時間をいただきありがとうございました。
(教会員50代)
私は呉教会で受洗して37年が過ぎました。今も教会を通して生活できます恵みを感謝致します。月ごとに前の会社の労友会のメンバーに会報を配ります、10件あった配布先も現在6件になりました。お悔やみの会員欄に先輩の名前がありました。呉湾に浮かぶコンテナ船を見ると先輩に迷惑をかけたことを思い出します。
船を浸水する時にバラストタンクに海水を入れていきます、その時にバラストタンクを間違えてしまいました。海水が上甲板の上に溢れてしまいました。上甲板で塗装業者が作業できなくなりました、下請け業者はどうしてくれるのと言ってきました。上甲板上に海水がつくと塗装ができません、必死で上甲板を水洗いしエアブロウしたことを思い出します。
私は先輩に申し訳ない気持ちでした。「怪我をしなくて良かったね」と言って慰めてくれました。彼は一言も私を咎めませんでした、彼の優しさを今も思い出します。
彼はボランティアで高校野球の審判員をしていました。高校野球が始まると会社を休んで暑い日の中で球審をしていました。彼の生き方が眩しくみえました。イエス様は誰にも愛を持って接しなさいと言っておられます。私もそうなりたいと祈っています。
1年前会社で同じ職場で働いていた若い同僚が交通事故で亡くなりました。
彼は新入社員として私の所で同じ仕事についていました。真面目な性格の彼のことを今でも思い出します。彼に仕事をさせていたところ暫くして私の所に失敗しましたと言ってきました。材料を溶接で不良品にしたり、電源ケーブルを短くカットしてしまったと言って来た彼に、度々呆れたことを思い出します。そんな彼の事を思い返せば可愛いくて仕方ありませんでした。
彼は肺に持病があり1年間休職していました。すこしずつ元気になり私と仕事が出来るようになり、冬の寒いとき彼の手を握り高圧配電盤の電線処理方法や配線表の作成を教えた事を思い出します。彼の手の温もりを今も思い出します。
再就職した私の勤務先に時々会いに来てくれました。彼は仕事のやり方を覚えて成長してくれていました。次の人に仕事が伝えられずに亡くなったことが残念に思います。黒瀬に家を購入し子供もでき楽しく過ごしていた矢先の事で本当に悔しく思います。
先に召された先輩、同僚を思う時 命の儚さを思います。共に過ごした日々が懐かしく出会いに感謝しています。私は75歳になりました後期高齢者です。もう少しで生涯を終える時がきますが、喜びを持って教会生活が出来ますようにと祈っています。
(教会員70代)
今年の2月16日の朝に、仕事場の市場に出勤して足元にひいてある鉄板に滑って大腿骨を骨折してしまいました。たくさんの人が回りにいたので恥ずかしくて、すぐ立ち上がろうとしましたが、全然その場から動くことができませんでした。少し、体を動かすだけで激痛が走りました。
救急車を呼んでもらい、共済病院へ行きました。この年になって情けない話ですが、痛みに耐えられず、ずっと大声を出していました。あんな痛みは今までの人生で初めての経験でした。
その日のうちに全身麻酔で人工股関節を入れる手術をしてもらいました。その後はただ、病院のベットの上で、上を向いたまま痛みに耐えるだけでした。食べ物も何も喉を通りませんでした。そんな状態のなか、手術の翌日からリハビリが始まりました。リハビリは本当につらかったです。
でも教会の皆さんの祈りや励ましのメール、寄せ書きやお葉書、電話してくださるお声、励ましの動画、全てが感謝でした。
小学校3年生の時に、この呉ナザレン教会へ導かれて半世紀以上、いろんなことがありましたが、いつもイエス様が共にいてくださり、愛する兄弟姉妹が助け、祈り、愛していてくださること、心から感謝いたします。
私の信仰の友であり、かけがいのない親友が突然倒れ、今死と戦っています。私が入院している時に「大丈夫?」とLINEをくれ祈ってくれました。今だに信じられません。病気やけがで苦しんでいる愛するお一人お一人の上に一日も早い神様の癒やしをお祈りいたします。
最後に、入院中にある方がメールしてくださった御言葉を紹介させていただきます。
「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」
(ヨハネの手紙Ⅰ 4:16)
(教会員 60代)
「神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛された。
ひとり子を信じる者が一人も滅びず、永遠の命を得るためである。」
(ヨハネによる福音書3:16)
父方の家は、浄土真宗ではありますが、祖母や母がクリスチャンだったこともあり、私は子どもの頃から教会に通う生活を送ってきました。
小学校4年生の時、母から受洗を勧められましたが、当時神様のことも よく 分からないし、こんな私が受洗しても良いのかと子どもながら悩みました。
受洗する2週間前、高知での子ども達を集めてのバイブルキャンプに参加し、今は亡き松田善行先生の祈りに励まされ、1980年8月17日に受洗しました。
ただ生活の中では受洗後、変わったわけではないので、妻にはよく 「あなたみたいな人クリスチャンらしくないよね」と、冗談で言われますが、祈りや、礼拝の説教を通して、み言葉が与えられ、今日まで教会生活を歩んで来られたこと、感謝しています。 2007年5月31日、父は長い闘病生活の末、天に召されました。 父は、毎週教会に通うことはありませんでしたが、母と私の良き理解者で、いつも家族を支えてくれました。
大人になって親である父を超えたい思いがどこかあり、素直になれず親孝行できずにいました。そのような中、父の死が近づいていることはとても辛く悲しい思いでいっぱいでした。
亡くなる1ヶ月前には人工呼吸器を装着、5月7日に父の死を覚悟するようにと医師から宣告を受けたと母から話がありました。
その後、母から父の病床洗礼の許可をもらったと連絡があり、生前父は、自分が亡くなった後は、教会の墓へ入りたいと言っていたし、これで父も天のみ国に行けるんだと、悲しみの中にも光が差し込んだ思いでした。
5月8日 松田基子先生から病床洗礼を受けることができ、教会の家族として加えられた事は感謝でした。
2019年12月21日には、妻が受洗、毎日食事の前と、就寝前に祈ることしか出来ていませんが、クリスチャンとしての歩みを日々送っていることに感謝しています。
私は大きな奇跡を体感したこともなく、証しとして、何も話すことができませんが、
皆さんの祈りに支えられ、家族で教会生活を送れていることを感謝しています。
この先も色々な試練にぶつかると思いますが、我が国籍は天にありと、いつも神様を見上げ、
信仰の歩みを続けていきたいと思います。
(教会員 50代)
最初に呉ナザレン教会に家内と共に訪問したのが2001年春でした。家庭的な雰囲気の教会で、礼拝に出席し共に昼食をいただきました。義弟がこの教会で癒され御国に召されましたけれども、彼が家内と私を教会へ導きました。
私にとって聖書は、初めて開く書籍でした。読んでいるうちに、納得することもありましたが、奇跡的な部分は、信じがたく思いました。それでも日曜日には教会に足を運びました。2002年に家内が受洗し、「日曜日は教会へ」の教会生活が日常となりました。同じ団地に藤井圭子先生がおられ、先生のすすめで松田基子牧師より2003年のクリスマスに受洗を許されました。受洗の動機は、多くの方が感動と共に洗礼をされたのとは違い自然のまま、なりゆきで受けたと思います。もともと私自身思慮深くありませんし、生きてきた人生に大きな挫折や大病もしておりませんので、受洗してから神様のみことばを受け入れればよいと思ったからです。今、思いますと罪深いことだったと思います。
それから日曜日は教会へとの教会生活が続きました。2004年3月に退職し、少しのアルバイトと畑仕事をし、スローフード、スローライフの生活を楽しんでおりました。「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい」テサロニケの信徒の手紙1 5章16~18節 このみことばに従い、感謝し、祈りをささげることが神様と繋がっているのだと実感します。日々の生活では、神様を忘れることが多く、どうしても人間生活をすることが多くあります。日曜日に聖日礼拝を守り悔い改めるという程度ですが、続けることに意味があると思っています。これからも礼拝を通し信仰を深め、信徒の交わりを深めていきたいと思っています。
最近、身体の部分部分に衰えが現われてきましたし、3年前から畑には家内が行かなくなり私一人で作業をしています。畑までの片道30分の運転に時々不安と寂しさを感じることがあります。そんな時、いつも思うのはイエス・キリストはいつも私と共に歩んで下さっているということです。いつもそばにいて導いてくださっているので、不安や寂しさは忘れることができます。
「明日のことまで思い悩むな 明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイによる福音書6章34節)
これからも日曜日は教会への、教会生活を続けていきます。
(教会員 70代)
豊かな人生の条件
中学3年のクリスマスに受洗しました。
子供の頃は、焼山の土曜学校で聖書のお話を聞き、子ども賛美歌を歌い、暗唱聖句を覚えたり、何もない集会室で奏楽もありませんでしたが松田牧師の歌声にリードされ、いつも楽しく賛美歌を歌っていたことを思い出します。その当時の先生は松田基子牧師とEさんと母でした。母は、私が赤ちゃんの時、呉教会へ行き始めたそうです。母が信仰を持ち父が信仰を持ち現在まで呉教会と共に人生を歩んでいます。
改めて今振り返ると、キリストに出会い人生が180度変えられたという劇的な感覚はありませんが、イエス様が救い主であると告白できる環境だったことに感謝しています。
2年前母が病気を告げられました。病気は、パソコンで調べるとおおよそ発病後治療を受けたとしても余命4カ月であることが書かれていました。もちろん数%の人ですが10年以上生存されている人もおられることも書かれていました。担当の医師から治療の説明を受けると共に「今のうちにお母さんの好きなことをさせてあげて下さい」と伝えられました。父と私は覚悟をしつつ母の治療を受けていました。
発病後すぐに松田牧師に伝え「母の全き癒し」を祈っていただきました。教会でも、礼拝で、祈祷会で、家庭でと皆さまに母の癒しを祈っていただきました。祈りにより、希望と平安と力が与えられました。祈りの力を実感しました。本当にありがとうございました。
病気はステージ3a(2より)ということでしたが、治療も順調に進み、今治療と共に半年ごとに転移の確認のため検査を受けていますが、今のところ転移もなく母は元気に日々を過ごしています。
病気とは別に年齢を重ねることによって失われていく機能もいくつかあります。その中で母は以前よりも穏やかになっているように思います。母は「父がより優しくなった、よく手伝ってくれこんなに色々と尽くしてくれるとは思わなかった」と言っています。お互いが支え合い日々を過ごしています。
松田牧師が「自分が見ている人に似てくる」と言われました。母は、ただ神様を今見ており「何の取り柄もない私を愛してくださる」と神様への感謝であふれています。
神様に出会えたこと、松田牧師と出会えたこと、呉教会の方々との良き交わりが出来たことをとても感謝しています。
「いつも喜んでいなさい。絶えずいのりなさい。全ての事に感謝しなさい」テサロニケⅡ.5-16
私は今、神様に従う人生の豊かさを両親を通して教えられています。神様と共に歩んできた両親と共に穏やかな日常がまだもう少し与えて下さっていることに感謝しています。
「豊かな人生の条件」(ともよ歌おう)より
豊かな人生の条件は聖書の中に 歴史の始まる以前から掲示されています
真の神を敬い罪を悔い改め 真心尽くしてキリストに従うことです
(教会員 50代)
信仰の喜び
80 歳を迎えた時、病気がわかりました。血管肉腫と診断されました。
それほどショックではなく、病気は自分の力ではどうにもできないことなので全てを神様に委ねるしかないという思いでした。
治療はすぐ始まり、毎日30 日間放射線治療に通院しました。症例の少ない病気でお医者様方の必死な取り組みに従い、通院中はたんたんと治療を受けました。
不安はなく、日々の教会の皆様のお祈りに支えられました。実際に日々祈られていることを聞き、その後次第に心が晴れていくことを感じました。
放射線治療の最後の日「ここでの治療は今日で終わりです。再びここでの治療はありません。ここに来てはいけません。」と背中を押し出されました。病院のスタッフの方々の優しさ誠意に心を打たれました。
もういつ死を迎えてもいいという神様による平安の中にありました。年齢的にもこの世のことでやり残したこともなく、神様と共に歩んできた人生に感謝でいっぱいです。呉教会の皆様、そして松田牧師との出会いと共に歩んで来た信仰生活に感謝しています。
現在、ガンの転移がない状態ですが抗がん剤の治療を継続中です。
日々神様に全てを委ね一日を穏やかに過ごしています。ただそのことに心が満たされています。
全ての人に感謝しています。祈りの中で神様に愛されている身であることの平安に包まれています。
(教会員・80代)